~訓練は一つ~

こんにちは。“絶滅危惧種”の中村です。

ヨーロッパ式、アメリカ式、ベルギー式、ドイツ式、○○式、強制訓練、叱らない訓練などよくもまあこんなにいろいろと呼び名をつけたものだと呆れかえる。僕はなんとか式だ、私はなんとか式だ、僕の方が優れている、いいや私の方が優れている、なんて聞こえてきそうだ。

どっちでもいい・・・。

一つ例を挙げてみよう。

「○○式にはマテという命令がない。犬が考えて待つように訓練するから他の訓練とは違う。」と誇らしげに語るトレーナー。

素人はこう思う。「マテをかけなくても自分で考え待つなんて、まあなんてすばらしい訓練から・・・」と。

では解説しよう

例えばケージや門から出ようとする時、交差点などでそこに犬が至った時に人は何も言っていないのに犬が人の顔を見上げ、まるで「行ってもよろしいでしょうか?」とでも言っているような顔をする。そこで人は「OK!行っていいよ」と声をかける。

トレーナーは自慢げにこう言う。

「これが○○式トレーニングの成果です。マテも言っていないのに自分で考えて止まって人の許可を待ったでしょう」と。

確かにマテは言っていない。犬も人の顔を見上げ確かに許可を待っているようだ。

さらに声高に続ける。

「威圧的にマテと言うと犬は自分で考えるようにならない。マテと言わなくても自分で考えるようにするのが○○式トレーニングの優れているところである」と。

威圧的にマテと言う=犬が考えるようにならない、マテと言わない=犬が考えるようになる。この理屈事態がちんぷんかんぷん。

「マテ」と言わなくても待てたり止まったりできれば、さぞ犬が考えているように見てとれることだろう。「犬が自分で考えてくれるなら早く覚えてくれるかも・・・・」なんて期待する人もいるかも知れない。ところがこれにはからくりがある。

そのからくりが動画に明らかに記録されているから面白い。

それぞれの状況で「マテ」とは言っていないが犬が待つように“無言”で人が干渉している。 “門の所まで来て門が視界に入る”“出ようとするとケージの扉が閉まる”、といった視符(視野に働きかける命令)が与えられているのである。扉をサッと閉めて犬が待たざるを得ない状況を作り出していること自体が「マテ」をかけているのと同じである。門を出る時にもやはり「マテ」とは言っていないが犬が門を認識した時点(つまり門が視界に入ることが視符)でリードを軽く張り、動作を止めている。

「マテ」をかけたからと言って犬が考えない訳ではない。最初のうちは勝手に出るし、勝手に門を通過する。いずれも指示を与えた後、正しく振る舞うようにリードやエサ、手を使って教える。犬が考えて正しく振る舞えたら許可を与える。できなければまた教える。声符か視符かの違いだけで与えられたその後の人の対処法はまったく同じ。それをさも命令を与えないのに自分で考えて行動しているかのように自慢げに言っているのだから滑稽である。

まるで「うちの犬は計算が出来るんです。」と言って大きな数字の書いたカードの前をうろちょろさせて犬に合図を出しているところを視聴者に見られないようにして正解の前で停止させて、「はいっ、すごいでしょう!」って言ってる大道芸人みたい。

「マテ」という声符が視符になっただけのこと・・・・。

犬に何かを教える時にはその状況状況で必ず「声符」や「視符」つまり犬の五感に統一の指示を出し、関連付けをしなくてはならない。あとは反復練習あるのみ。どんなやり方の訓練であれ関連付けと反復練習なくして犬が指示に従うことはあり得ないのである。

「訓練は一つ」・・・・・・・・うちの見習い達に口をすっぱくして言っている言葉である。

「マテと言わないから○○式は優れている!」「○○式は犬が自分で考えて行動するようになる。他の訓練とは訳が違う!」

ほ~たいしたもんだ。

絶滅危惧種:中村信哉は絶滅の危機に瀕しながらも今日も咬みつくわんこを見守る

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